自分にしかできない演技を
「俺たちもあいつらに負けてられないな」
伏見臣は十座演じるランスキーを良いように利用しようと企む悪徳検事役。普段の彼からは想像できない、どこか艶っぽい振る舞いで観客を魅了します。
他のメンバーが元々持っている人間性に適合した役を与えられている中で、臣は秋組での唯一自身と全く異なった質感の芝居をやってのけた役者となりました。それだけ、振れ幅大きく色々な役に適合できる可能性を秘めています。
暴走族の族長として名を馳せたこともある臣は、ただ一辺倒な生き方をしてきたわけではありません。族長となるまでの間に荒っぽくならなければいけなかったでしょうし、足を洗ってから今の温和な人間性を得るまでにも色々な経験をしたことでしょう。
臣は20年という短い歳月の中で、何度も自分の在り方を替えながら歩みを進めてきた青年でした。
それ故に自分を化けさせることについて一日の長があり、転じて役を演じる上での引き出しを多く持つことができているのだと思います。
荒くれ者として多くの人を傷つけ、友人さえを失った過去の自分。後悔の塊となったその経験があったからこそ、臣は真に迫った悪役を演じることができています。彼が心から芝居を楽しいと思えるようになったのは、その自分の積み重ねが1つとして無駄にならない活動だったからなのかもしれません。
人は失敗から学んで大きく成長するものですが、失敗その物が直接的に活かされる場に巡り合うことはさほど多くはなく。役者という自分の人生経験が全て武器になる稀有な活動は、伏見臣にとっては1つの救いとなり得るもののはず。
友人の夢を自分に引き寄せたに過ぎなかった臣は、葛藤の末にそれを「自分の夢にもなった」と自信を持って言えるようになりました。それは彼自身が芝居の魅力を知ったから、役者として生きることを望んだからこそ辿り着いた結論です。
その全てが決して詭弁ではないことは、舞台上の彼の堂々とした振る舞いを見ていれば分かること。そしてそんな"伏見臣の演技"もまた見る者の心を打ち、違う誰かの人生に必ず影響を与えることでしょう。
誰かの借り物ではない自分だけの夢。内に秘めたる熱意を煮詰めて、伏見臣にしかできない表現を。今とは異なる過去も利用して、彼の人生は新たな前進を始めたのです。
MANKAIカンパニーの団員として
「これが秋組ってところ、見せてやれ」
いづみとの交流で蓋をしていた自分の感情を解放し、"本気"になることを選んだ古市左京。千秋楽ではアドリブによる台詞追加を連発し、血の気の多い仲間たちに発破をかけて回ります。
アドリブとは言え勝手な台詞追加はハイリスクですが、他の役者にほとんど影響がない退場前や一人芝居の時間を選んで行っている辺りは流石の一言。独りよがりではなく、しっかりと大局を見た上で「やりたいこと」を挟んで行く。本気になってもその冷静さは失われていないようです。
そして彼が付け加えた台詞は、役を演じる摂津万里にも向けられた内容でした。
アウトロー気質の先輩として、常に万里と十座のことに気を配っていた左京。彼らが演じるカポネとルチアーノとランスキーの関係性は、実際の左京と万里と十座の関係性にも重なります。
だから彼は舞台という空間で年長者の威厳を誇示しながら、秋組全員がこの芝居に込めた熱量を今一度爆発させようと試みていました。誰にとってもこの演目が「完全にやり残したことがない舞台」になるように、座組全体を焚き付ける役を買って出たのです。
などと言うと、彼には「俺があいつらに勝ちたかっただけ」と言われてしまいそうですが。逆に言えば、その左京の欲望が良い形で反映される座組が秋組だったというわけです。
特に万里と十座にとっては「戦って勝つ」ことは生き方に直結する行為。どこまで行っても彼らの人生には喧嘩という観念が存在していて、それはそのまま闘争心や向上心に繋がっています。技術や情感で"見せつける"ことは、彼らの心にポジティブな炎を灯す大きなキッカケになることは間違いありません。
そして万里と十座の2人に火が点けば、太一と臣もそれに応えないはずがない。結果として左京は自分のやりたいこと本気で行えば、そのまま座組全体の熱量を的確に底上げできるポジションに身を置けていると言えるでしょう。
ずっとやりたかった芝居を始める勇気が持てず、誰よりもスタートが遅くなったことを嘆いていた古市左京。彼にとっても、秋組は自分の持ち味を発揮できるベストな座組となりました。
メンバー次第ではそもそも、年齢差のある強面のヤクザというだけで受け入れてもらえなかった可能性も否めません。左京からすれば1人のメンバーとして居させてくれる座組に出会えたのが既に幸運なことで、それについては彼自身も感じ取っているのではないかと思っています。
「そんなチビが、俺の初恋だと言ったら…笑うか?」
本当は結構お茶目だし、センチメンタルなところもある。今でも実はあまり強く在るの自体、得意ではないのかもしれません。演劇を通して彼の本質がどんどん露わになっていると思います。
新たな仲間たちと共に歩む左京の役者人生はまだ始まったばかり。果たせなかった恩返しと後悔を胸に、MANKAIカンパニーの劇団員として。大好きだったものを内側から救う物語は、これからも続いて行きます。
バッドボーイ・ポートレイト
「歯ぁ食いしばれ!」
「……!?」
左京に焚き付けられた万里が最後に見せた芝居。それは演技というにはあまりにも真に迫った、兵頭十座に向ける渾身の右ストレートでした。
舞台上では段取り合わせをして「殴ったように見せかける」のがもちろん普通で、彼らもここまでのお芝居ではそのようにこなしてきたはずです。それを万里は最後の最後で、躊躇なく思いっきり十座の顔を殴り抜いてみせました。
兵頭十座を打倒し、その背中を地面に付けさせる。自分が受けた屈辱と同じものを、あいつにも味わわせる。それは過去の万里が望み続けてきた1つの結果の達成に他なりません。
しかし、この時に万里が抱いていた感情がとっくにそれとは異なっていることは、今更指摘するまでもないでしょう。
「俺の人生最大の後悔は――」
ただ、その感情を何か1つのものに断定するのは難しい。摂津万里が兵頭十座に向ける感情はとても複雑で、言葉で言い表すのは野暮でもあるとさえ言えるものだと思います。
「――何も知らずに退屈だとかくだらねぇとか言って過ごしてきたことだ」
彼らがどこかで憎み合い、いがみ合っているのは今も変わらない事実です。いくら芝居での交流を経たとは言え、仲が良い"友達"などと言える存在では決してなく、かと言って唾棄すべき仇敵と言うわけでも最早ない。
互いの存在がプラスでもありマイナスでもある。どちらかと問われれば、きっと彼らは口を揃えて「マイナス」と答えるはず。
それでも心のどこかでは、互いの存在を意識せずにはいられない。そして、その時間があるから今の自分があることも分かっている。
そんな相手のことをどう形容すべきだろう。ある時は相棒、ある時はライバル、ある時はいけ好かない相手、ある時は一応"ダチ"になることもあるかもしれない。正の感情も負の感情も合わさって、それでもどこかで"共感"し合っているたった1人の相手。
「…さっきのお前のポートレイト、良かった」
「…当たり前だ。でもまだ勝った気しねぇけどな」
やりたかったことに全力で挑める熱意を得た者と、望んでも手に入らなかった熱意を与えられた者。互いの心に熱いものを届け合った2人の少年たち。
演劇の世界は決して交わるはずのなかった2人の間に、決して振り解くことのできない結び目を作り出してしまいました。
「何が退屈だ…何が熱くさせるもんがねぇだ…!」
今この場で言いようもない充実感を得られているのは、目の前にいる"こいつ"のおかげであることは否定できない。
それを理解しているから、彼らは舞台袖で手を合わせました。万里は殴ったことを謝罪することもなく、十座も殴られたことに文句を言うこともありません。それが当たり前の交流であったと言わんばかりに、彼らは役者としての信頼関係の深さを滲ませたのです。
「あんじゃねぇか!こんな面白れぇモンが!」
だから終幕の一撃は、摂津万里の成長の証。
最高の熱意を持って芝居に挑んだ彼が贈る、兵頭十座へのたった1つのメッセージ。
「俺を――熱くさせてくれるモンが!!」
それが何かを改めて言う必要はない。互いの「バッドボーイ・ポートレイト」を曝け出した2人の間には、それだけで必ず同じ感情が宿るものだろうから。
もう満たされない人生に嘘をつき続ける2人はここにはいません。1対1の役者として同じ熱いものを手に入れた、新しい彼らが確かな光を放ち続けています。
「勝ったな」
「俺がな」
ここに来ても、やはり彼らは自分の負けを認めません。けれどそれは、互いに相手を打ち倒したいと思っているからではない。彼らはそれだけ自分が「熱くなっている」ことを証明したいから、その場で熱意をぶつけ合うのです。
それが自分たちがより高みを目指して行くために、必要なやり取りだと感じ取っているのだと僕は思います。
「俺だろ」
「俺だ」
競い合い、戦い合い、傷付け合うことで成長する関係性も存在する。摂津万里と兵頭十座は、これからもその在り方を認め合って生きて行くのでしょう。そしてそれがMANKAIカンパニー秋組を引っ張って行く熱量を生み出すはずです。
秋組初回公演「なんて素敵にピカレスク」。
後悔を乗り越えた彼らの初舞台は満員御礼、鳴り止まぬ拍手の中で有終の美を飾ったのでした。
「あざっした!!」
「あざっした!」
「ありがとうございました!」
「ありがとうッス!」
「…ありがとうございました!」
おわりに
舞台が終わった後は春組と夏組を巻き込んで、MANKAIカンパニー揃い踏みで彼らの成功を祝福しました。
隠していた事実も抱え込んでいた嘘も、今清算しておかなければならない事象は1つとして残さないよう、逃げずに立ち向かった秋組の姿が最後までしっかりと描かれました。
その全てが6話かけて挑んできた、それぞれの闇との最終決着に他なりません。過去の自分を克服してきた彼らのまっすぐなやり取りは、どれも胸を熱くしてくれるものだったと思います。
本来であれば短い謝罪で済まされないようなことをした太一も、千秋楽で魅せた芝居から幸に伝えられたものがあったのでしょう。同じ板の上に立つ舞台人同士である以上、本番公演の熱量は何物にも代え難い説得力を持って相手に伝わる。それは彼らについても同じことだと思います。
抱えるものがたった1つの経験で全て無くなるわけではありません。トラウマは何かの拍子に顔を出してしまうし、根本的に変えられない人格も残念ながら存在しています。これからも秋組は、自分たちのコンプレックスとどこかで戦い続けて行くのでしょう。
ですが、そんな彼らにしか描けない物語がたくさんあるはずです。
止むを得ない失敗や挫折を抱えていた春組夏組とは違い、自分たちの選択ミスによる後悔を抱える秋組は、また違った角度で大変に魅力的な芝居の世界を表現してくれました。個人的には秋組が今のところ一番好みではあるので、彼らとのお別れは少し名残惜しくもありますね。
次回から始まる冬組は、GOD座も絡んできて波乱の物語になりそうです。GOD座を抜けたエースの高遠丞くんも恐らくMANKAIカンパニーに合流してくれるでしょうから、「舞台公演」というジャンルでは過去最高の実力になるのかも?楽しみです。
それでは秋組の物語はここで締めと致しましょう。たくさんの感動をありがとう。感想記事の方、今後ともよろしくお願い致します。
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